プロローグねえ? どうして何も言わずにいなくなったの?そんなことを私は思いながら、目の前に現れたその人を、亡霊でも見るような思いで虚ろに見つめた。あの暑くて、初めての気持ちを持て余していた夏。 あのときの蝉の鳴き声は今でも、はっきりと覚えているのに……。どうして? どうして? いつまでも私はあなたに振り回されると、生まれたときから決まっていたの?そんな運命は……いらない。 そんな出会いは……いらなかった。愛なんて知らずに生きていたかった。 すべてが変わったあの日。 もう戻れない……笑い合った幸せな日々には。そんなことを思いながら私は、急に真っ白になった視界を最後に、意識を手放した。※※※※※(蝉の鳴き声がうるさい)「蝉だって一生懸命なんだから、そんなことを言ったらいけないでしょ」(お母さんなら、そんなことを言いそうだな……)そう思いながら、今日も朝からラブラブだった両親を思い出して、日葵は小さくため息をついた。もうすぐ夏休みという7月中旬は、嫌になるくらい暑く、どこかの庭に咲いている向日葵さえ下を向いていた。(いつも太陽のほうを向いてなんかいないよ……向日葵だって。水とか与えてもらえなきゃ無理でしょ……)そんなことをブツブツ言いながら、制服のシャツの胸元をパタパタとさせ、真っ青な空を仰ぎ見た。「ひま! 何ブツブツ言ってるんだよ! 早く来い」相変わらずの上から目線の言葉に、日葵は苛立ちを隠せず歩みを止めた。不満げな日葵を見て、少し先を歩く壮一は小さくため息をついた。「お前がいると、俺が遅くなるだろ?」うんざりするように言われ、日葵はその場に立ち止まった。長谷川日葵、高1。 都内の高校に通う、どこにでもいる女子高生だ。そして、同じマンションに住む2つ年上の幼馴染・清水壮一を睨みつけた。(昔は優しかったのに……)日葵は、幼稚園・小学校のころの優しかった壮一を思い出す。 いつも手を引いて歩いてくれていたころを。日葵にとっては、兄であり、友達であり、いつも自分を守ってくれる存在だった。両親が親友同士という家庭で育ったため、生まれたときから当たり前のように一緒で、小・中・高・大学まで一貫校の二人は、いつも一緒だった。しかし、高等部に上がったころから、壮一はまるで別人のようになった。壮一の周りには、いつの間にか
「日葵! おはよう」「おはよう」静かに言った日葵に、友人の涼子は怪訝そうな表情を浮かべた。「どうしたの? 壮一先輩と何かあった?」教室に向かう廊下で涼子に確信を突かれ、日葵は小さく頷いた。「なんで私はいたって普通なのに、そうちゃんはあんなにきれいなのかなって」「何よそれ?」意外な言葉だったようで、涼子はポカンと日葵を見た。そう、日葵の周りには、いわゆる美形という人しかいない。日葵の両親も弟も、芸能人と言ってもいいくらい容姿が整っているし、それでいて父の誠は大手会社の社長というハイスペックだ。母の莉乃も、誠を支えて秘書をしていたが、今はその能力を生かして経営の仕事をしている、いわゆる「できる女」だ。「だって、なんで私だけ普通なのかなって。弟の誠真だって、まだ中2なのにめちゃくちゃモテるんだよ」「ああ、誠真くん、高等部のお姉さんたちからも人気だもんね」涼子の言葉に、日葵はうなだれるように顔をしかめた。「それに……」「壮一先輩?」「うん」日葵の言葉に、涼子はポンと日葵の肩を叩いた。「壮一先輩は、まあ別次元の人なんだよ。去年の学園祭のときの美しさは、もう神だったよね」思い出してうっとりするように言った涼子に、日葵もそのときの壮一を思い出す。「ていうか、あれ何の仮装だったのよ?」何なのかわからなかったが、警察官の制服のようなコスプレをしていた。 それがまた、なぜか妖艶で中性的な雰囲気を醸し出していて、これでもかというほど目立っていた。「壮一先輩はさ、あの容姿でクールでしょ。あの冷たい感じが余計に人気があるんだよね」「壮一パパが昔はそうだったみたいだけど、今は壮一ママに逆らえないよ」壮一の父・弘樹は壮一とそっくりの容姿だが、母の香織にはまったく逆らえず、今では「クール」という言葉などどこかに行ってしまっている。 昔は今の壮一みたいだったと両親たちに聞いても、日葵にはまったく信じられなかった。「へえ、そうなんだ。でも、確かにその中にいるのは、なんかね……」そうなのだ。そんな中で、日葵は本当に普通だった。『日葵だって可愛いんだから大丈夫』母の言葉は、いつもどこか慰めのような気がして、日葵は窮屈さをだんだん感じ始めていた。そんな憂鬱な気分のまま一日を終えたところで、教室がざわめいた気がして、カバンに教科書を詰めていた日
そんな二人のやり取りに、周りの友人が壮一を見ていることに日葵は気づく。(どこにいても、何をしてても目立つ人だよね)昔から一緒のため、もう周りからは兄妹のように認識されているし、壮一の周りにはいつもきれいな女の人がいるので、特に秀でたところのない日葵は、うらやましがられることも、嫌がらせをされることすらなかった。そして、壮一自身が「こいつは妹だ」と宣言していることもあり、壮一を狙う女の子たちからライバル視されることもなかった。それが嬉しいのか、悔しいのか、日葵は最近わからずにいた。並んで歩いていると、外に出るまでの距離ですら女の子たちの視線が痛くて、日葵は少し後ろを向いて俯きながら歩いていた。「おい、朝も言ったよな? 急げよ」舌打ちでも聞こえてきそうな壮一の声に、「別に一人で行けばいいじゃない」 音になったのかわからないほど小さな声で日葵は呟いたが、次の瞬間、グイッと手を引かれ驚いて顔を上げた。そこには、まっすぐに日葵を見つめる真っ黒な瞳があった。 その瞳に、何か言いたいことがあるのかすら、日葵にはわからなかった。昔はよくこうやって手を引かれて学校へ通っていたが、今こんなことをすればどうなるか――日葵にはよくわかっていた。(キャー!!)悲鳴にも似た声とともに、一斉に日葵へ向けられる視線。「ねえ、そうちゃん。もう小さくないんだから、この手やめてよ」「お前はいつまでたっても、小さなガキだろ?」ため息とともにズルズルと引っ張られる様子に、周りからは安堵の声が漏れる。「ほら、やっぱりあれは小さな子を連行してるだけでしょ?」日葵はもう何かを言う元気もなく、それどころか――昔のようにつながれた手を、なぜか放したくなくて、キュッと少しだけ力を込めた。この気持ちは、周囲からの言葉への反抗なのか、それとも……。 壮一の骨ばった大きな手が、昔とは違うことに気づき、日葵はドキッとした。自分の中で感じたくない思いが湧き上がり、日葵は必死にそのことを頭から追い払った。校門を出ても、いろいろな人の視線はやはり壮一に向けられる。 昔からのこととはいえ、日葵はチラリと壮一を見た。そんな中、隣に日葵がいるにもかかわらず、どう見ても大学生くらいの年上の女性が、遠慮なしに壮一に声をかける。「ねえ、どこか行かない?」「いえ、まだ学生なので」少しだけ微笑
~8年後~「ようやくだな」誠の言葉に、壮一は微笑を浮かべた。「社長、今日からよろしくお願いします」真面目な顔で頭を下げた壮一に、誠はじっと視線を向ける。「本当にいいのか? すぐに父親の会社に入ってもいいんだぞ?」誠の言葉に、壮一は少し言葉を選ぶようにして答えた。「親父の会社のことは、弟もいますし、これからどうなるかわかりませんが……今はこの会社でやりたい仕事をさせていただきたいと思っています」父・弘樹の会社は、広告業を営んでいる。「それに……父も若いころは別の会社で働いていましたし、何のコネも関係なく、仕事をしたいと思っています」そんな壮一の言葉に、誠は表情を緩めると、ふっと息を吐いた。「そうか。ここからは、もう一人のお前の父親としての意見も入るかもしれないが」そう前置きすると、誠は座っていた椅子から立ち上がった。「壮一の作る音楽は、うちの会社にとっても願ってもない才能だ。だから俺としては、大切な息子が来てくれて嬉しいけど……弘樹からは恨まれてるよ」その言葉に、壮一も小さく頷き、笑顔を見せた。「アメリカで学んだことも多いだろう。期待してる。それに……」少し含みを持たせた誠の言葉に、壮一は唇をギュッとかみしめた。「アメリカに行く前に言っていた答えは出たのか?」「それは……」【このまま当たり前のように日葵といることが、本当に俺たちのためになるのか、わかりません】18の、まだ若い頃。 そう言って、日葵に何も告げることなく、アメリカの大学への留学を決めた。壮一は、そこで言葉を止めた。あれから8年が経った。アメリカのゲーム会社での経験も積んだ。そして、誠の会社が参入するゲーム業界で、音楽を手がけるために帰国し、入社することになった。それはすなわち、もう一度、日葵と向き合うということだった。日葵が生まれたときから、当たり前のようにずっと一緒にいた。 しかし、あの頃――このまま日葵が自分に好意を持ってしまうことが、壮一にはなぜか怖かった。可愛くて、自分のことより何よりも大切だった日葵。 どんなことをしても守る。そう思っていたことは確かだった。しかし、それが兄のような気持ちなのか、異性としての感情なのか、壮一にもわからなかった。それに……。それ以前に、日葵が自分しか知らない世界の中で、自分を選んだとしても―― いつ
「長谷川さん、食事でもどう?」日葵は、声をかけてきてくれた男性に、申し訳なさそうに頭を下げた。「ありがとうございます。でも……すみません」決まり文句のようになってしまっている自分自身を嫌悪しつつ、日葵は頭を下げる。「そうか……彼がやっぱりいるの?」諦めきれない様子のその人に、日葵は肯定とも否定とも取れないように曖昧に頷き、もう一度小さく頭を下げた。「日葵、また?」化粧室から出ると、急に声をかけられた日葵は、後から出てきた同僚の佐奈に気まずそうな表情を浮かべた。「だって……」「とりあえず食事ぐらいいいじゃない? 今の人、営業部でも人気のある人よ?」すでにその人の後ろ姿は見えなくなっていたが、佐奈はその方向を見ながら日葵に言った。「日葵はさ、そんなにきれいなんだから。恋愛の一つもしないともったいないわよ」肩をすくめながら言う佐奈の言葉に、日葵は自嘲気味な笑顔を浮かべた。「きれいになった……か」綺麗になった原因が、壮一だということは日葵としては認めたくなかった。だが、壮一が何も言わずにアメリカへ行ってしまった後、日葵は自分でも驚くほど落ち込んだ。そのおかげというわけではないが、思春期に少しぽっちゃりしていた日葵は、体重が落ちた。そして、壮一がいなくなった喪失感を、勉強やダンスで埋めることで、結果として今となっては自分磨きができたように思う。今ではあの頃とは違い、きちんとメイクをし、髪も伸ばしている。もちろんヒールの靴だって履くようになった。「それはそうと、プロジェクトの進行はどう?」佐奈の言葉に、日葵は真剣な表情に戻すと、佐奈を見た。「ある程度のところまでは来てるかな。開発自体は順調だし、シナリオライターさんも優秀な人だし、チーフとして音楽担当の人も、もうすぐ新しく入ってくるって聞いてるしね」日葵は、それらの進行の管理や外注スタッフとの調整など、プロジェクトの雑務を一手に引き受けていた。もともと副社長の娘であることは一切伏せて入社しているし、誠も娘だからといってひいきをするような父親ではない。当初は営業部に所属していたが、どうしても新しく立ち上げられるアプリゲームに携わりたくて異動願を出し、ようやくそれが叶ったのが3カ月前だ。大企業が新たに参入するということで注目度も高く、まずは大手ゲーム機向けソフトの販売から始まり、
「長谷川、大丈夫か?」「部長……」以前の部署で世話になっていた崎本を見て、日葵は小さく頷いた。崎本は日葵より十歳年上の三十四歳で、いつも優しく頼れる上司だ。三カ月ほど前、崎本から好意を持っていることを伝えられていたが、「返事はいらない」と言われ、曖昧な関係が続いている。日葵としても、壮一を引きずっているつもりはなかった。だが――あのときの喪失感から、「誰かと付き合う」ということを、どこかで敬遠してしまっている自分がいる。そんな日葵を、ゆっくりとそばで見守ってくれているのが、崎本だった。ゆっくりと日葵のもとへ歩いてくると、崎本は日葵の顔を覗き込んだ。「まだ顔色がよくないぞ」「もう大丈夫です。でも、部長……どうして?」その言葉に、崎本は少し照れたような表情を見せた後、諦めたように言葉を続けた。「倒れたって聞いて、いてもたってもいられなかった」まっすぐに伝えられた言葉に、日葵は顔に熱が集まるのを感じた。「あ……ありがとうご……」言いかけた日葵の言葉を遮るように、鞠子が声を上げる。「ハイハイ、部長さん。その子、連れて行って。日葵、無理するんじゃないわよ」ひらひらと手を振る鞠子に、日葵も小さく頷いた。「戻るの?」崎本の心配そうな言葉に、日葵は申し訳ない気持ちを抱きながらも、小さく頷く。やはり、このまま仕事を放り出すわけにはいかない。そう思うと、崎本に頭を下げ、自分の席へと戻った。部署に戻ると、壮一たちはずっと打ち合わせをしているようで、ミーティングルームにこもっていた。顔を合わせなくていいことに安堵しつつ、なんとかその日の仕事をこなしていた。「終わるか? 送るよ」その言葉に顔を上げると、優しい微笑みをたたえた崎本の顔が目に入る。日葵は、ほっと息を吐いた。「あっ、こんな時間……。ありがとうございます」「集中していたから、声をかけるのをためらったよ」日葵自身、崎本に対する気持ちが、上司としての尊敬なのか、それとも愛情なのか――わからなかった。それでも、崎本の優しさは、日葵にとってありがたかった。そっと、日葵の額に崎本の手が触れる。この部署は他と違い、隔離されていて――今、この空間には、日葵と崎本の二人だけだった。「熱はないな」少し躊躇したような手の動きに、日葵は微笑んだ。「もう大丈夫ですよ。部長、心配し
「お邪魔して悪かったね。俺は長谷川さんの元上司でね。今日、倒れたと聞いたから様子を見にね」「そうでしたか。わざわざありがとうございます」さらりと言葉を発した壮一は、引き出しの中から何かを取り出すと、にこやかな笑みを日葵に向けた。「長谷川さん、あまり無理しないようにね」昔から、声をかけてきた人を断るときに向ける、あの笑顔――。その瞬間、日葵の心がギュッと握りつぶされたようで、息ができなくなる気がした。「あ……ありがとう……ございます」何とか声を絞り出すと、震えそうな手で日葵は荷物をカバンにしまう。「部長、行きましょう。送っていただけるんですよね?」なんとか平静を装いながら立ち上がり、崎本を見た。「ああ。行こうか」「お疲れ様です」抑揚のない壮一の声が聞こえ、日葵は小さく会釈すると、足早にフロアを出た。(あの人といると、自分が自分でなくなる)ずっと昔から、生まれたときから一緒にいた壮一だったのに――。今は、誰よりも遠く、まるで知らない人のように感じた。崎本の車が駅のロータリーに着くと、日葵はお礼を言い、降りようとした。「待って。本当に大丈夫? 俺は家を知ってても押しかけるような真似はしないよ?」少しふざけたように言う崎本に、日葵は苦笑した。「そんなことは思っていないです」どうしても、やはり家まで送ってもらうことをためらってしまった自分に、内心ため息をつく。「君は本当にガードが堅いな」その言葉に、日葵自身、どう答えていいのかわからず俯いた。「他の男たちの間でも有名だよ。絶対に食事にも行けないって―― あっ、悪い」そこまで言って、崎本は大きなため息をつくと、髪をかき上げた。「悪かった。少しだけ、そいつらよりは俺のほうが君に近いのかなって思ってしまって」その言葉に、日葵は考えた。確かに、崎本と一緒にいると安心するし――壮一のことを忘れさせてくれる気がしていた。「それは……」「いい! 何も言わないで。長谷川の弱さにつけ込んで、返事を聞くのを先延ばしにしてるのは俺だから。もう少し時間をかけさせて」ふざけているように見せかけつつも、真剣な瞳に――日葵は小さく頷いた。「ありがとうございます」今度こそ車を降りると、日葵は崎本の車を見送った。駅から徒歩数分のマンションに、日葵は住んでいる。実家からでももちろん通えるが
「引っ越しの挨拶をしようと思って」威圧的なほどの態度で、エレベーターを背に日葵を囲うように立ち、上から見下ろしていた壮一。その意外な言葉に、日葵は呆然として壮一を見上げた。「え? 引っ越し?」少し間抜けな声が出た気がして、日葵は慌てて視線を逸らす。「ああ。お前の隣の部屋」さらりと表情を変えずに言う壮一に、今度こそ日葵は大きな声を上げた。「うそでしょ! ありえない!」(そうよ、ありえない。なんで今さら、この人に私の生活を乱されなきゃいけないの?)苛立ちとともに、あの8年前の気持ちがざわざわと蘇り、日葵はきつく唇を噛んだ。「ありえないか……」その言葉に、少しだけ表情を変えた壮一。日葵は小さく息を吸い込むと、壮一を睨みつけた。「隣なんて迷惑。もう私はあの頃の私じゃないし、清水チーフがいなくてもやっていけます。だから、私にもう構わないで」一気にそれだけを言うと、日葵はするりと壮一の腕をすり抜け、自分の部屋へと向かった。「日葵」後ろで聞こえたその声に――ドクン、と胸が鳴る。悟られないように、日葵は振り返ることなく自分の家のドアの前で動きを止めた。「お前、あの部長と付き合ってるの?」「あなたには関係ないでしょ?」抑揚なく言った日葵の言葉に、壮一はすぐに返事を返さなかった。その沈黙を無言と受け取った日葵は、鍵を開けるとするりと体をドアの中へ滑り込ませた。「関係……ないな」壮一の呟いた言葉に、驚くほど胸が痛んだ。自分で言った言葉なのに。「関係ない」と、壮一の口から発せられたその言葉が、ぐるぐると頭を巡る。そんな自分を叱咤しながら、パッと着替えてキッチンへ向かう。「何があったかな……」いろいろなことがありすぎて、なぜか落ち着かない。日葵は、一心不乱に野菜を切り始めた。「嫌だ……こんなにどうするのよ、私」まな板の上に山盛りになった野菜にため息をつくと、そのまま鍋へ放り込む。(もう面倒だから、スープにでもしちゃおう)そう決めると、コンソメとトマトで簡単に味をつける。日葵は、ぐつぐつと煮え始めた鍋の中をじっと見つめた。壮一さえ帰ってこなければ、こんな気持ちを味わうことなどなかったはずだ。(どうして同じ会社に入ったの? 壮一なら、自分の父親の会社に入ればいいはずよね)そんなことを思っても、事実として――これから毎
朝から街中クリスマスソングがながれ、楽し気なカップルがたくさん溢れている12月24日。「ようやくですね」柚希の声に日葵は小さく頷いた。「今回のこのfantasy worldは、最新の技術と映像を駆使して作られております」壇上で完璧な姿で発表をする壮一を、日葵と柚希は会場の後ろで見守っていた。マスコミ関係者からも感嘆の声が漏れ、問い合わせも多く各ゲーム雑誌などからも取材が殺到している。一日早く始まった予約もかなりの予想を上回る数字で、さらにこの発表で伸びるだろう。そこには完璧に出来上がった「新しい始まりの世界」の映像が壮一の音楽と一緒に流れていた。雄大な映像と、迫力の中にも繊細さの感じるオーケストラの音が壮大さを広げている。(やっぱりすごい……)壮一の才能をまざまざと確認して、日葵はただその映像を見ていた。映像の最後に主人公の男の子と女の子がそっと手を取り合う。そしてあの、車の中で聞いた壮一の曲が切なく流れていた。『さあ、新しい未来に……』その言葉で映像は締めくくられていた。「長谷川さん!」驚いたような柚希の声に、日葵はハッとして自分の頬を抑えた。いつのまにか流れ落ちていた涙に気づかなかった。「嫌だ、何度もみてるのに。大画面は迫力あるね」言い訳のように言った日葵に、柚希は何か言いたげな表情を浮かべた。「長谷川さんって」「ん?」聞き返した日葵に、柚希は小さく首を振り「なんでもありません」そう答えると切なげに微笑んだだけだった。日葵も柚希に何か言葉をと思ったところで、その空気を壊すように大きなスピーカーからアナウンスが流れる。「この後、完成パーティーに映らせて頂きます。飛翔の間にご移動をお願いいたします」司会の言葉に、興奮したように話しながら出て行く人々を慌てて日葵と柚希も見送る。その後、チームのみんなが待機していた部屋へと一度移動して、片づけをしてたところに、壮一が戻って来るのがわかった。「みんなお疲れ様」発表を終えネクタイを少し緩めながら小さく息を吐き、壮一はチームのみんなに声を掛ける。「チーフ、お疲れ様でした!」「感触よかったですね!」苦労して作り上げてきたものが、好感触だったことにみんなが興奮気味だ。「ああ、これもみんなのお陰だ。今日はこの後思う存分食べろよ」「はい!」数十人いる部屋は熱気と興奮で溢れ
「どうして? なんで昔みたいにはできないの?」絞り出すように問いかけた日葵に、今度は壮一がビクッと肩を揺らす。「もう昔とは違う」静かに言われた言葉に、日葵はもう感情がグチャグチャで自分でも支離滅裂なことを言うのを止められなかった。「どうして? ようやく仲直りできたのに、どうして昔みたいに仲良くできないの? ねえ? どうして」泣きながら壮一に詰め寄る日葵の目に、苦し気に歪む壮一の瞳が目に入ったと思ったと同時に、いきなり壮一に引き寄せられる。苦しくなるぐらい力強く抱きしめられ、日葵は息が止まるかと思った。壮一の肩に顔を埋める形になり、その表情は解らない。ただ、驚きと壮一の力強さに、呆然とただ抱きしめられるままになっていた。「そうちゃん……?」ただ心臓の音がバクバクと煩くて、ただその呼び名が口から零れ落ちる。「言っただろ? 俺はお前といると触れたくなるって」耳元ではっきりと言われた言葉に、日葵の思考はピタリと停止する。そしてグイッと身体を離され、そこにある壮一の熱の孕んだ瞳にハッとする。兄でもない、ただ一人の男の人だと認識するも、どうしていいかわからず見つめられる瞳から逸らすこともできなくて、ただ壮一を日葵も仰ぎ見た。「幼馴染でも、妹でもなく、ただ一人の女として好きだ」真っすぐに言われ、日葵の思考は完全に停止する。「だから、一緒にいればお前触れないことはもうできない。無邪気に触れていたころとはもう違うんだよ。だから、もう日葵とはいられない。お前は崎本部長が好きなんだろ? お前を困らせるつもりはなかったんだよ。さんざん今まで苦しめたんだからな」最後は寂し気に伝えられた壮一の言葉が、ただ無機質な空間に響いた。「帰ろう」いつのまにか涙はとまり、ドクンドクンと自分の心臓の音だけが響いていた。(私のことが好き?)日葵は何も答えることが出来ないまま、二人でお互いの玄関の前で立ち止まる。鍵を開けて家に入らなければ、そう思うも日葵はこのまま帰っていいの?そう自問自答したまま立ち尽くす。なにを言えばいいかわからないが、とりあえずこのままでは嫌で壮一を呼ぼうとしたその時、一息先に壮一の声が聞こえて日葵の肩が揺れた。「こんな大切な時期に本当に悪かった。困らせるつもりはなかった。上司として明日からもよろしく頼む」バタンと音がして壮一の姿が見えな
「どこって……。仕事の件はなんでしたか?」口を手で覆い、息を吐きだしながら答えた日葵に、少しの無言のあと壮一から仕事のファイルの場所を尋ねられ、日葵は端的に答えた。「おつかれさまでした」こんな状況がバレたくなくて、今すぐに電話を切ろうとした日葵だったが、壮一がそれを許すわけもなかった。『ひま、お前今何してる? 誰かと一緒か?』「違います。一人です」馬鹿正直に答えてしまったことを後悔するも、昔から〝ひま”そう呼ばれると怒られている気がしてしまう。『じゃあ、場所はどこ?』「え?」答えたくないわけではなく、日葵自身どこにいるのかわからず、周りを見渡す。見慣れない景色にキョロキョロとしていると、受話器の向こうからため息が聞こえた。『すぐに位置情報送信しろ』命令されるように言われ、日葵自身自分の場所を確認する必要もあり、位置情報をあらわす。どうやら、駅とは真逆の方へと歩いていたようだった。「大丈夫です。わかりました」きっと迎えにくるというだろう。そんな壮一に日葵は静かに言葉を発して、電話を切ろうとした。今壮一に会えば、ぐちゃぐちゃな気持ちがさらに加速しそうだった。『ひま、いい加減にしろ』かなり怒った様子の壮一に、なぜか日葵は涙がポタリと頬を伝う。仕事も忙しく、崎本の事も、壮一のことも、何もかもがわからない。「だって、だって……」『もういい、こっちで確認する』え?日葵のスマホの位置情報など、きっと壮一にかかればすぐにわかるだろう。『なんでそんなところに、カフェも何もないな……くそ』呟くように聞こえた後、電話の向こうでガサガサという音だけが聞こえる。『絶対に動くな!』その言葉を最後に、日葵の耳に無機質な音が聞こえた。ぼんやりとしながらもうどうしようもないと、日葵はその場に立ち尽くしていた。ようやく寒い、そんな感覚が襲いコートの胸元をキュッと手で閉じる。それから数分後、車ならそれほどの距離でないことが、壮一の車が目の前に止まったことでわかった。バンという大きな音を立てて、壮一が走って来るのが見えた。「日葵!」慌てたように壮一が目の前に現れ、なぜかほっとしてしまった自分に驚いた。会いたくない、そう思っていたのに。「お前なにやってるんだ! こんな寒いのに行くぞ」壮一も慌てていたのだろう、昔のように日葵の手を掴み車へと
「お疲れさま」あの日以来、もちろん社内で姿をみることはあったが、会話らしい会話を日葵はしていない。もちろん仕事が忙しかったこともあるが、なんとなく気まずかったのも事実だ。「お疲れ様です」複雑な気持ちのまま日葵は小さく微笑んだ。「少しだけいい?」「はい」この状況で嫌ですと言えるわけもなく、日葵は小さく頷くと駅には入らず崎本と歩き出した。「疲れた顔をしているね。体調は大丈夫?」「はい。仕事も大詰めですし」当たり障りのない答えを返しながら、崎本の表情を見ればいつも通りの崎本で、日葵はホッとする。「完成パーティー、結構派手にやるみたいだね」よほど社長である誠は、壮一が手掛けた仕事を労いたい様で、大規模なパーティーを企画していた。「そうですね」日葵は少し苦笑しつつ、崎本に答える。街中がクリスマスムード一色で、きらきらとイルミネーションが輝いている。そんな景色をぼんやりと見つめていた日葵の耳に驚く言葉が降って来る。「一緒に行かないか?」「え?」家族なども連れてくパーティーの為、もちろん妻や恋人を連れてくるだろうし、パートナー同伴という人は珍しくはない。つい聞きかえした日葵の目に、崎本の真剣な瞳があった。もちろん父である社長はもちろん、母や弟も来る場で崎本と一緒にいるということは、そういうことだと理解されるだろう。それがいけないことなのか?日葵はグッと唇をかみしめて自分の気持ちを考える。ずっと自分のことを甘やかし、見つめてくれた崎本。頑な自分をずっと見守ってくれた。しかし、日葵の頭に不意に『もう昔には戻れない』そう言った壮一の表情が思い浮かぶ。ぐちゃぐちゃな自分の気持ちがわからず、日葵は俯いて自分の手をギュッと握りしめた。きっと崎本はそんな日葵の気持ちなどお見通しなのだろう。「迷っているという事は肯定と受け取るよ」珍しく日葵の気持ちを聞くことなく、言い切った崎本に日葵は驚いて顔を上げた。「当日は一緒にいってもらうから。時間を取らせてごめん。気を付けて」それだけを言うと、崎本は静かに歩いて行ってしまった。(どうすればいいの?)ただ自分の気持ちがわからず、日葵は当てもなく街を歩いていた。さっきまで綺麗だと思っていたイルミネーションも目には入らない。崎本のことはもちろん尊敬してるし、好きか嫌いかと聞かれればもちろん好
「おはようございます」会社のエントランスに入ったところで、柚希に声を掛けられ、日葵は笑顔を張り付ける。あの後、まったく頭を整理できるわけもなく、眠れない週末を過ごした。壮一のことも、自分のことも日葵は整理することなどできはしなかった。自分は今、壮一にどういった感情を持っているのだろう。そして、壮一はどう思っているのか?そんなことを考えてももちろん答えなど出る訳もない。日葵の顔はむくみがひどく、なんとか化粧でごまかし週明けの月曜日出社していた。「おはよう、柚希ちゃん」「調子悪いですか?」柚希にもわかるほどの顔なのか、そう思うと日葵は心の中で小さくため息を付く。「大丈夫。それよりもうすぐだから頑張らなきゃね」自分のミスでいろいろな人に迷惑をかけたのだ。当たり前だが今は壮一のことより、仕事を優先すべきだと日葵は自分を叱咤する。「そうですよね。もうすぐですね。プレスリリース。その後は完成パーティーもありますよね」柚希の嬉しそうな声に反して、日葵は憂鬱になって行く。あっという間の師走を迎え、クリスマスにプレスリリース。もちろん王晦日のカウントダウンに合わせての発表の方がインパクトはあったはずだ。それでも、何も言わず社内はクリスマスに合わせてと色々各所調整してくれた。感謝しかない。日葵はそう思いつつ、頭の中でやるべきことを整理していた。「長谷川!」フロアに入ると一番に壮一の呼び声に、日葵はビクリと肩を揺らした。週末のあの日以来、壮一とは顔を合わせてはいない。どういうつもりで言ったのか聞きたかったが、どの答えを聞いても自分がグチャグチャになるだけのような気がして、何も聞くことはできなかった。「すぐにこのSテックに連絡を入れてくれ。後、パーティーの人数も変更になっているみたいだから確認して、手配してくれ」資料を日葵の目を見ることなく壮一は渡すと、すぐに違う連絡を始めた。今日は何か大切な打ち合わせがあるのだろう、いつもよりピシッと整えられた髪に、スリーピースの濃紺のスーツ。それを完璧に着こなし、片手にパソコン、もう片方にスマホで話をする壮一に、日葵は小さく返事をする。何もかもあの日のことなどなかったように、いつも通りだ。デスクに戻り、すぐに受話器を取ると電話を入れる。確認事項を終え、ボールペンを走らせていると、柚希が壮一のところ
『昔に戻ろう』その言葉のままなら、この距離なんて普通のはずだ。 小さい頃は一緒に眠ったことだって何度とあるし、いつもこの距離で会話をしていた。しかし……。やっぱり今は違う! 日葵の中で感じた感情はそれ以外の何物でもなかった。 離れてた時間のせいか、再会してからの上司としての壮一を見たせいか、理由など考える余裕はなかったが、日葵の心臓は煩いぐらいにドキドキと音を立てる。高校に入ってまったく話さなくなった冷たい壮一とも、小さい頃の優しい壮一でもない。今ここにいるのは今の等身大の壮一だ。 そのことが日葵を混乱させる。 知らない人のように感じる壮一に、ザワザワとするこの感情が何か考えたくなかった。「あっ、えっと」 そんな気持ちを悟られないように、日葵が話を続けようとしたのに壮一は目を逸らすことなく、日葵の瞳を覗き込んだ。そのままどれほど見つめ合っていたのだろう。きっとほんの数秒だがとてつも長く感じる。「日葵……」呟くような声とともに、更に壮一の顔が近くなる。え? 唇が本当に触れそうな距離まで壮一が近づき、日葵は動けなくなる。初めて見るかもしれない。熱を持ったような壮一に、この人は誰?そんな気さえする。しかしそんな日葵に気づいたのか、壮一はハッとしたように動きを止めた。「悪い」 何に対して謝られたのか全く分からない。 今ままでとは確実に違う、二人の距離感を意識しないわけにはいかなかった。 破裂してしまうのではないかと思うほど、心臓が煩く音を立てる。何……今の。 日葵の中で『生身の男』と言った崎本の言葉が不意に頭をよぎる。 冷たいぐらいだった身体が一気に熱を持つのがわかった。どうしていいかわからない日葵を他所に、壮一を見れば涼しい顔をして文字を直している。 「日葵、ここだろ?」 至って普通の壮一に、日葵は唖然としつつ、自分だけ動揺しているようでそれを隠したくて、表情を引き締めた。「そう。そこ。直したらご飯だから片付けてね。お茶持ってくる」 自分に対しての言い訳のように、日葵は言うとキッチンへと急いだ。 その後二人で食事をする間も、仕事の話ばかりしていた。 あえて日葵がその話題をしていたのか、壮一がそれ以外の話をしないのかわからない。しかし、ふと話が途切れて無言の時間が出来る。その静寂
あの日以来、少しずつ壮一との関係は変わって行った。日葵が望んだとおり、兄として家族としての関わりになってきたかもしれない。あの名古屋からの帰り、二人でクタクタになり家へと戻りお互いの家の前で、日葵は壮一に呼び止められた。『日葵、もう一度昔の関係に戻りたい。仲が良かったころに。それは無理?』その壮一の言葉に、日葵は無意識に言葉を発していた。『私も戻りたい』きちんと謝ってくれたのだから、これ以上意地を張る必要もなければ、ここからは壮一の負担になるようなことは避けたかった。自分の幼さから壮一を苦しめてしまったことも、日葵の中で後悔の念があったのかもしれない。週末の金曜日、名古屋から帰ってきてからもハードワークで疲れ切った顔をしていた壮一に、みかねて日葵は食事を食べに来るようにメッセージを送った。もしかしたら断られるかもと思ったが、すぐに壮一からは終わったら行くと返事がきた。安堵しつつ日葵は、壮一より早く会社を出ると、スーパーでメニューを思案する。長い年月、壮一の食の好みがどうかわったかわからない。悩んだ末に日葵は、子供の頃壮一が好きだった煮込みハンバーグを作ることにした。時間の都合もあり、それにサラダという簡単なメニューだが、デミグラスソースに玉ねぎやニンジン、ブロッコリーなど、野菜がたくさんとれるようにしようと考えた。家へ帰ると、さっとハンバーグを作りきれいに焼き色を付けた後、たくさんの野菜とデミグラスソースで煮込む。その間に、レタスとトマトを中心にサラダを作り冷蔵庫で冷やしておいた。時計を見れば、もうすぐ21時になろうとしている。まだかかるかな。そう思ってソファに座りテレビをつけたところで、メッセージが来たことを知らせる音が聞こえた。【もうすぐ行く】意外と早かったな。そう思いながら冷蔵庫からサラダを出したところで、家のインターフォンが鳴った。え?もうすぐって、本当にすぐじゃない。そう思いながら、パタパタと玄関に走って行くと、ドアを開けた。そこにはすでにシャワーも浴びたのだろう。スウェット姿で髪がまだ少し濡れた壮一がいた。「お疲れ様」「誰か確認しろよ」そう言いながらも、ポンと壮一は日葵の髪に触れると自分の家のように先に中へと入って行く。そんな壮一に、小さく息を吐くと日葵は後を追った。「おっ、うまそう。俺の好きな物
その後、運転を変わるという壮一の言葉に、日葵は素直に従うと助手席へと移動した。コーヒーを飲みながら、ぼんやりと外の風景に目を向けた。そして、初めのころの壮一の態度を思い出した。「ねえ? どうして謝る気になったの?」すっかりさっきのままため口になっていたが、日葵はそれに気づかず、胸の中の棘が抜けたような気持ちだった。そして少し意地の悪い質問だと思ったが、日葵は初めのころの態度とは違う壮一に問いかけた。「ああ……」壮一は少し考えるような表情をしたあと言葉を発した。「戻ったばかりのときは、日葵をこんなに傷つけてるなんて思ってなかったんだよ。大人になった日葵は、もしかしたらあの時のことなんてこれっぽっちも気にしてない。その可能性だってゼロではないだろ?」確かに、この離れていた時間のお互いのことはわからない。その可能性だってなかったわけではない。日葵はそう思うと小さく頷いた。「じゃあどうして?」「もちろん、日葵の態度でも気づいた。極めつけは誠真だな」意外な言葉に日葵は驚いて目を見開いた。「誠真? どうして誠真?」いきなり出てきた弟の名前に、日葵は声を上げた。「こないだ久しぶりに飲んだんだよ。あいつ日本に帰ってきただろ?」弟の誠真は大学を卒業後、壮一の父親である会社に入社し一年間アメリカへと行っていた。「そういえば帰ってきたわね。あの子」「あの子ってお前。誠真だって大人だろ」壮一が少し笑って言ったのを聞いて、日葵も少し笑みを漏らした。「それで?」「親父の会社に入ったけど良かったかって。俺だって誠さんの会社に入ったわけだし、全く問題ないって答えたよ。本来、やりたいことが逆だったらよかったなって話をした」確かに壮一も誠真も、自分の父親の仕事を継ぐのがよかったのかもしれない。でも、今はまだお互いのやりたいことが逆だ。「そうだね」そう答えた日葵は、チラリと壮一に視線を向けると、瞳がぶつかる。どちらからともなく視線を逸らすと、壮一が静かに言葉を発した。「その時聞いた。どれだけ日葵が傷ついて、目も当てられないほどだったかって……」(誠真……)確かにあのことは、誠真の優しさもすべて無視して、一人の世界にこもっていて心配をかけたのだろう。「めちゃめちゃ怒られた。あの誠真に。大人になったな」「そうだね」怒ってくれた誠真の気持ちが
荷物を乗せると、日葵は運転席へと向かう。「長谷川! 本気か?」慌てたような声に、日葵はジッと壮一を見た。「すごいクマです、チーフ。きれいな顔が台無しです」なぜかスラスラと言葉が出て、日葵はホッとした。「危ないと思ったらすぐに言えよ」ハラハラした言い方の壮一を助手席に乗せると、日葵は車を発進させた。日葵は車の運転が好きだった。都内ではあまり乗る機会はなかったが、仕事に必要だろうと免許も取得していた。「本当だ。うまいもんだな」隣でホッと安堵したような壮一の声に、日葵も少し微笑んだ。「眠っていってください」そう言葉にしたところで、日葵は視線を感じチラリと壮一を見た。「チーフ?」「いや、本当にいろいろ悪かったと思って」もう日葵を見てはおらず、壮一は窓の外を見ていた。「あの……」「なに?」静かにゲームのインストルメントが流れる車内で、日葵は口を開いた。「“いろいろ”って何ですか? 行きの車で言われたことを考えていたんです。完璧でいたかったからアメリカにって……それがどうして、どうして何も言ってくれない、につながったのか」これを聞かなければ、自分自身が前に進めないような気がした。静かに少しずつ尋ねる日葵に、壮一が自嘲気味な笑みを浮かべたのが分かった。「逃げたんだよ。全部から」「え?」その意外な言葉に、日葵は反射的に壮一を見た。「日葵から、すべてから。日葵に行くのを止められたら、きっと行けなかった。でもあの時の俺は、苦しくて、どうしても逃げ出したかった」そんな葛藤があるとはまったく思っていなかった日葵は、ギュッとハンドルを握りしめた。「それも完全なおれの自己満足だったってことに、ようやく気付いた」「私から逃げたかったの? 私のせいだった?」つい零れ落ちた自分の言葉を止めようと思った時にはもう遅く、壮一がシートから起き上がるのが分かった。「違う。日葵、それは違う。すべて俺が悪いんだよ。お前は何も悪くない」静かに、真剣な表情の壮一に、日葵は涙をこぼさないように何とか運転に集中しようとした。「日葵、次のサービスエリアで止まって」その壮一の言葉に、日葵もこれ以上運転をして危険があってはいけないと、サービスエリアに車を止めた。「コーヒーでも飲もうか」壮一の言葉にも、日葵はそのままジッと止まったまま動けなかった。「だっ